「九谷焼」伝統と革新が作り上げた九谷焼の魅力を徹底解説

陶磁器九谷焼古九谷吉田美統徳田八十吉青木木米 2024.02.14

日本を代表する色絵陶磁器のひとつ「九谷焼(くたにやき)」。
九谷焼最大の魅力はその色絵にあります。くっきりとした濃厚な彩色、ダイナミックな構図、繊細な筆致…作風ごとにまったく違った顔があり、見る者を魅了してやみません。
長い歴史を持ち、国の伝統工芸品として認定されているだけでなく、普段使いの器として、今も多くのひとに愛されています。
今回は変幻自在の色絵陶磁器・九谷焼の魅力と歴史についてご紹介します。

九谷焼の基本データと特徴

分類:磁器、陶器
産地:石川県
歴史:1650年代~

九谷焼(くたにやき)は石川県で誕生した色絵陶磁器です。特徴はなんといってもその色絵にあり、その美しさと独創性は「上絵付けを語らずして九谷はない」といわれるほど。
素焼きした器の素地に呉須(ごす)と呼ばれる藍色の絵具で下絵を描き、本焼きした後さらに、緑(青)・黄・紫・紺青・赤の五彩(ごさい)と呼ばれる絵具での彩色するのが基本です。5色を巧みに使うことから「五彩手」とも呼ばれます。
器の余白をほとんどすべて塗り埋めてしまう青手(あおで)、赤呉須を使って輪郭を描いた赤絵などもあり、非常に多種多様です。
絵柄もじつに多彩で、花鳥、山水、人物を、精緻な伝統文様とともにダイナミックに描き出します。

九谷焼の歴史

誕生と突然の廃窯

九谷焼の発祥は江戸時代の初期までさかのぼります。
1655年(名暦初期)頃、加賀藩の支藩・大聖寺藩の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されました。大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだとしはる)は、この発見に着目し、後藤才次郎を肥前有田に派遣して製陶を学ばせました。
才次郎が持ち帰った技術を導入して久谷に窯を築き、その地名を冠した九谷焼が誕生しました。
しかし、1700年代初頭(元禄末期)に、突如として九谷焼は廃窯してしまいます。廃窯となった原因は諸説あって、今現在も断定されていません。
この廃窯までの期間に作られたものを「古九谷」と呼びます。

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100年越しの九谷焼再興

廃窯からおよそ一世紀後の1807年(文化4年)、九谷焼再興の取り組みが始まります。
京都から加賀藩に招かれた文人画家・青木木米(あおきもくべい)の尽力により、春日山窯が開かれます。これを皮切りに多くの窯が加賀地方一帯に開窯していきました。
木米風、吉田屋風、飯田屋風、庄三風、永楽風と、多彩な作風が花開いたのもこの頃です。
この頃の作品は「再興九谷」と呼ばれます。

新時代の九谷焼

明治に入り、九谷焼は日本の主要な輸出品となります。1873年に開催されたウィーン万国博覧会への出展を機に、ジャポニズムが席巻していたヨーロッパで、九谷焼を含む日本の色絵磁器の美しさが高く評価されました。
また、明治から昭和にかけては、窯元の職人たちが陶芸作家として自立していった時期でもありました。
その中には名工・浅井一豪(あさいいちごう)、次代の作家の育成に尽力した竹内吟秋(たけうちぎんしゅう)、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)と交流のあった初代・須田菁華(すだせいか)などがいました。

九谷焼ができるまで

土づくり

九谷焼は、石川県小松市花坂山で採石された陶石を原料としています。成形しやすい粘り気と、高熱加工しても形状を保つ耐火性を持った陶石です。
陶石を細かく粉砕して水に浸し、浮遊物を取り除きます。さらに水分を抜いて適当な軟らかさに調整したものを、土もみします。

成形

陶石からできた土を成形します。
成形方法にはろくろ、手びねり、タタラ、鋳込みなど、器に応じて様々な方法があります。成形した素地は数日かけて半乾きにし、歪みの修正、彫り、高台の仕上げなどを行います。

素焼き

成形した素地を、約8時間かけて800~900度の低温で素焼きします。
これによって器が固まり、その後の作業が容易になります。
素焼きをしないまま釉薬をかけて焼成する方法も存在し、これは生がけと呼びます。

下絵付け

素焼きが終わり、釉薬(ゆうやく)をかける前に施す絵付けは「下絵付け」または「染付(そめつけ)」と呼びます。
呉須と呼ばれるコバルトブルーの顔料を使うため、中国では「青花(せいか)」とも呼ばれています。

施釉

素焼きした器に釉薬をまとわせる工程を施釉(せゆう)といいます。
使用するのは、焼き上がると透明になる白釉(はくゆう)です。釉薬は高温で焼くとガラス質の膜に変化します。釉薬で覆うことで、器が美しい光沢を帯び、さらに水分や汚れを吸収しづらくなるのです。
施釉の方法も多様で、大きな容器に溜めた釉薬に器をくぐらせる方法や、ハケで塗る方法、霧吹きのように吹きかける方法などがあります。

本焼き

施釉した器を約1300度の高温で15時間以上焼成します。
本焼きを終えた器は硬く焼き締まって白く変化し、溶けた釉薬によってガラス質の艶が出ます。この状態を「白素地(しらきじ)」と呼びます。

上絵付け

本焼きを終えた器にさらに絵付けをします。
釉薬の上にするのでこの工程を「上絵付け」と呼びます。呉須で骨描きし、五彩を中心にした和絵具で様々な彩色を施していきます。ガラス質を多く含む粉末状の絵具を薬剤で溶いて、器に塗っていきます。

上絵窯

上絵付けした器を、800~1000度の上絵窯で焼成します。焼成時間は製品によって幅があり、4時間から10時間ほどにもなります。和絵具は焼成する前と後ではまったく違った色になり、絵具自体がガラス質になって釉薬に定着します。釉薬と絵具の透明感のある色彩が、九谷焼の大きな魅力です。

錦窯(金窯)

金彩や銀彩を施す場合には、ここでさらに工程を追加します。
上絵窯で焼成の終わった器に金箔や銀箔などを貼りつけ、400度ほどの低温で焼成します。

色絵陶磁器は丁寧な加飾や施釉に加えて、最低でも3回、多ければ4回の焼成を経て完成するのです。

九谷焼の代表的な作風・技法

「上絵付けを語らずして九谷はない」その言葉通り、九谷焼はその上絵付けが大きな魅力です。ここでは独創性と様式美のるつぼである九谷焼の代表的な作風と技法を紹介していきます。

古九谷(こくたに)

九谷焼 古九谷 後藤才次郎 五彩
日本画の一派である狩野派の名匠・久隅守景の指導によるといわれているもので、五彩を用いた作風です。
大胆な構図とのびやかな線が特徴で、絵画的にも完成されており、力強く存在感があります。

木米(もくべい)

九谷焼 木米風 青木木米
九谷再興のために京都から招かれた文人画家・青木木米の指導による作風で、器の全面に赤を施し、中国風の人物を中心に山水、禽獣などを五彩を使って描き込んでいます。
極彩色の図柄は豊かさと活気にあふれ、人物ひとりひとりの顔には得もいわれぬ親しみやすさがあります。

吉田屋(よしだや)

九谷焼 吉田屋風 青手 豊田伝右衛門
吉田屋窯は、大聖寺の豪商・豊田伝右衛門(屋号:吉田屋)が九谷古窯のほど近くに築いた窯で、再興九谷のうちのひとつでした。
吉田屋風は、青手古九谷の塗り埋め様式を再興した作風で、赤を排した緑(青)・黄・紫・紺青の四彩のみを使用しています。前面に大きく花鳥などを描き、その背景を小紋や文様で隙間なく塗り埋めているのが特徴です。独特の色彩で重厚感があります。

飯田屋(いいだや)

九谷焼 飯田屋風 赤絵 金彩
宮本屋窯の陶工・飯田屋八郎右衛門によって生み出された作風です。
赤絵呉須で人物や動植物を描き、その周りを小紋で埋め尽くして、ところどころに金彩を用いた緻密かつ絢爛さが魅力です。赤絵細描とも呼ばれるように非常に細かな筆致が特徴的で、「九谷赤絵」のはじまりともされています。

永楽(えいらく)

九谷焼 永楽風 永楽和全 金彩
京焼の陶芸家である永楽和全の指導による作風です。
京焼の金襴手(きんらんで)手法で器全体を赤く塗り、その上に金のみで模様を描きました。京焼ならではの優美で洗練された美しさが魅力で、花鳥や瑞獣を一筆描きするのも特徴とされています。

庄三(しょうざ)

九谷焼 庄三風 九谷庄三
西洋文化と洋絵具を取り入れた和洋折衷の作風です。
古九谷、吉田屋、赤絵、金襴手すべての作風を取り入れ、間取り方式で器に描き出しました。
洋絵具を取り入れることでそれまでにない絶妙な中間色を作り出すことに成功しており、この多彩な色を用いて花鳥・山水・人物などを描いた彩色金襴手は「ジャパンクタニ」と呼ばれて、海外からも人気を得ました。

青粒(あおちぶ)

九谷焼 盛金 青粒 仲田錦玉
青粒は厚みのある細かな点を密集させて描く技法で、九谷焼においては大正時代に広まったといわれています。
「ちぶ」とは「つぶ」が訛った言い方です。青のほかに白粒や金粒があり、いずれも大きさの整った粒が整然と並んでいます。
元々、粒を打つ技法はアクセントとして取り入れるだけのもので、打ち方も無秩序な、わき役的な表現でした。そんな青粒技法を、ひとつの芸術の域にまで引き上げたのが、二代目仲田錦玉(なかたきんぎょく)です。二代目錦玉は、粒の並びが渦のように見える「渦打ち」という技法を編み出し、明媚さを備えたものに進化させました。
現在、三代目仲田錦玉がこの技を引継ぎ、盛金技法と青粒をかけ合わせた素晴らしい作品を生み出しています。

釉裏金彩(ゆうりきんさい)

九谷焼 釉裏金彩 吉田美統
釉裏金彩は、釉薬の裏(下)に金彩を施す技法です。
一般的には釉薬の上から施す金彩ですが、釉裏金彩は素焼きした素地に金箔を貼って施釉し、1,000度未満の低温で焼成します。一般的な金彩に比べて、金箔や金泥が釉薬に守られて耐久性が増しますが、金彩の上から釉薬をかけるので、高度な技術が必要となります。
1906年(明治39年)に開窯した錦山窯は、金彩の技法を得意として120年近く操業を続けています。特に1951年(昭和26年)に窯を継いだ三代目吉田美統(よしたみのり)は、独自の世界観を確立し、2001年(平成13年)には国の無形文化財保持者に認定されました。吉田美統の釉裏金彩は、厚箔と薄箔を使い分けることで繊細で幅広い表現を可能にしており、鳥の羽根一枚、葉脈の一本にいたるまで細かく描かれています。

彩釉(さいゆう)

九谷焼 彩釉 耀彩 徳田八十吉
彩釉は複数の色の釉薬を重ねて器を塗り埋める技法です。
二種類かそれ以上の釉薬を重ねることで、オーロラのような神秘的な色彩の変化が現れます。三代目徳田八十吉は特にこの技を極め、彼独自の技法として「耀彩(ようさい)」を生み出しました。

伝統を継承し、彩釉技法を新たな地平へ導いた徳田八十吉

上絵付けと色彩の妙こそが九谷焼であるとされる中で、古九谷の伝統を伝えながらも、九谷上絵の新境地を切り拓いたとして誉れ高い名跡があります。それが徳田八十吉です。

初代

初代徳田八十吉(1873~1956年)号は鬼仏
もとは日本画家を志して絵画を学んだ初代でしたが、のちに古九谷や吉田屋風の青手に強く惹かれ、独立して九谷五彩の釉薬を研究開発するようになります。
古九谷青手に対して強いこだわりがあり、その類まれなる才腕によって、本歌と見紛うほどの素晴らしい写し作品をいくつも生み出しました。
伝統的な名品が多く知られ、古九谷風の色使いが美しい「闘鶏図平鉢」や、昭和天皇御即位の際に献上した「萬歳楽置物」などが知られています。

二代目

二代目徳田八十吉(1907~1997年)初期の号は魁星
二代目八十吉を継ぐべく、15歳で初代の養子となりました。成人後、家業に従事する傍ら陶芸家の富本憲吉(とみもとけんきち)から陶画を学びました。
伝統の色絵を伝えながらも、画風の刷新に挑んだ名工で、風景を写生したものをベースにした素晴らしい作品が知られています。正確明瞭な線で描かれた「正視図九角飾皿」や、鮮やかな黄色に目を奪われる「秋映飾皿」などが有名です。
68歳で石川県指定無形文化財に認定されました。

三代目

九谷焼 彩釉 耀彩 徳田八十吉
三代目徳田八十吉(1933~2009年)
三代目八十吉は、図柄や文様ではなく、複数の釉薬の色の移り変わりによって作品を表現しました。釉薬の美しいグラデーションや万華鏡のような色彩が特徴的で、当時も今も熱狂的なファンを持ちます。
彩釉風の「あけぼの」に始まり、1971年に日本伝統工芸展にてNHK会長賞を受賞した「彩釉鉢」、1977年の「燿彩鉢」を皮切りに、前衛的かつ抽象的な作品を次々に発表しました。
彩釉が非常に有名ですが色絵の腕も素晴らしく、石川県指定文化財「色絵鳳凰図平鉢」に範をとった「古九谷意 鳳凰図飾皿」などが知られています。
63歳の時に重要無形文化財「彩釉磁器」保持者(人間国宝)に認定され、それ以降も精力的な作陶と研究を続け、独自の名品を作り続けました。

四代目

四代目徳田八十吉(1961年~)
四代目八十吉は女性で、三代目の長女です。
2010年に四代目を襲名しました。三代目が極めた彩釉の技術を継承し、新たな色彩を模索しながら、精力的に作陶を続けています。

> 徳田八十吉の買取について

現代の九谷焼

現代の九谷焼は、貴重な伝統工芸として、日常使いの器として、広く愛されています。
また、アニメやゲームとのコラボレーションにも精力的で、伝統文様とキャッチーなキャラクターが描かれた器も非常に人気があります。
発祥まもなく廃窯した経緯から、それ以前の古九谷を蒐集するコレクターも多く、再興九谷、明治以降の新しい九谷とともに、探し求める蒐集家は少なくありません。

終わりに

「九谷焼」は、廃窯と100年の沈黙から不死鳥のように甦り、今日にいたるまで日本を代表する色絵陶磁器であり続けました。
伝統的な作風と様式によって名品を生み出し、同時に時代のニーズに合わせた器も作り出すことで、洋の東西も老若も問わず今も多くのファンを魅了しています。
九谷焼の名品はコレクターズアイテムとして高価で取引されることも少なくありません。
作品の状態、付属品によっては、評価額が高くなる場合もあります。
九谷焼の買取をご検討されている場合は、ぜひ一度ご相談ください。

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担当

小川芳朋

編集部

西洋陶磁器が専門。 美しい物と怖い物について書いています。 アンティーク食器のほか、蚤の市、廃墟、妖怪に詳しい。