有田焼(ありたやき)は400年以上の歴史を持つ、日本最古の磁器です。
繊細な伝統文様や花鳥図の高級な大皿や花生に加え、現代的でモダンなスタイルのテーブルウェアなど、多種多様な製品が存在し、日本国内に留まらず海外でも根強い人気を誇ります。
目次
有田焼の基本データと特徴
分類:磁器
産地:佐賀県
歴史:1610年代~
有田焼とは佐賀県有田町を中心に作られている陶磁器を指します。
単に「有田焼」と言った場合、それはほぼ間違いなく磁器のことです。透き通るような白い素地に、藍色の染付、もしくは目が覚めるような華やかな色絵が特徴となっています。
有田焼?伊万里焼?古伊万里?気になる名称の違い
有田焼と伊万里焼の違いってなんだろう?どっちが正しい呼び方なんだろう?と思ったことがある方もいると思います。
実は、有田焼と伊万里焼はおおむね同じものなのです。
明治時代以前、有田、三川内、波佐見など肥前国で作られた磁器は、まとめて「伊万里焼」と呼ばれていました。これは陶磁器を出荷するために使われていた伊万里港に由来します。「伊万里の港から出荷される磁器」として、まとめて「伊万里焼」と総称されていたのです。
現在も、肥前磁器を総称する場合は「伊万里焼」と呼びますが、有田町とその周辺で作られた製品は「有田焼」、伊万里市で作られた製品は「伊万里焼」と、基本的には呼び分けています。
古伊万里という名称もありますが、これは古い伊万里焼のことで、特に江戸時代に肥前で作られた磁器のことです。歴史的価値・芸術的価値が高く、国内外に根強いファンを持ちます。
有田焼の歴史
16世紀末、文禄・慶長の役が起こり、多くの西国大名が朝鮮に派兵しました。
肥前の領主だった鍋島直茂はこの戦役から撤退する際、複数の朝鮮人陶工を連れ帰りました。このうちのひとり李三平が有田に移住し、当地の泉山で良質の陶石を発見したと言われています。磁器製造に適した陶石の発見と、参平が伝えた朝鮮の技術によって、日本で最初の磁器・有田焼が誕生しました。
1650年代にオランダ東インド会社から注文を受けるようになって、有田焼はさらに大きく発展することになります。
当時、磁器の製造方法が伝わっていなかったヨーロッパで、真珠のように輝く東洋の磁器は憧れの的でした。
この時代、明末清初の動乱期だった中国から磁器が輸出されなくなり、そのあとを引き継ぐようにして、肥前磁器はヨーロッパの需要に応えることとなりました。
江戸後期になると、日本の他地域でも磁器製造が始まり、さらに海外貿易が衰退していったことで、有田焼は慢性的な不況に陥ります。
しかし幕末、明治初期の万国博覧会に出展したことで、再び注目と名声を得ます。これによりヨーロッパにジャポニスムが流行し、日本初の貿易商社が誕生しました。
その後も大戦や不況といった苦難があった中でも、有田には100を超える窯元が製造を続けており、伝統を守りつつも、時代に即した「新しい有田焼」を作り続けています。
有田焼の多様なスタイル
有田焼は、日本最古の色絵磁器として400年以上の歴史を持ち、その長い年月の中で様々なスタイル(様式)を生み出してきました。
初期伊万里
有田焼がはじまったばかりの1610年代~1650年頃までに作られたものは「初期伊万里」と呼ばれています。
青みのある白磁に呉須の藍色で染付しただけの、素朴で質素なものが主流でした。
草創期の有田焼は中国の古染付に範を求めていますが、次第にそこから脱却し、日本独自の画風へと移行していきます。ゆえに、率直に言って素朴かつ稚拙な図柄も多く見られ、誕生間もない有田焼の試行錯誤が見て取れます。
古九谷様式
「古九谷(こくたに)様式」には大きく3つのタイプに分類できます。
祥瑞手(しょんずいで):明末清初の景徳鎮で製作された染付磁器と共通する意匠のもので、文様のおおまかなを部分を染付で描き、人物などの輪郭線を赤い絵具で描きます。
五彩手(ごさいで):窓画の構図を基本とし、窓の中には山水、花鳥、人物などを黒い輪郭線で描きます。着彩には緑(青)・黄・紫・紺青・赤の五彩を中心的に用います。
青手(あおで):五彩から赤を排した四色いずれかで、器面の余白を塗り埋める様式です。油絵のような濃厚な色彩が特徴となっています。
九谷焼といえば石川県南部で作られる色絵磁器のことですが、この「古九谷様式」という名称は、単に古い九谷焼のことではありません。
昭和40年代、古い九谷焼だと思われていた色絵磁器と類似するかけらが、有田の複数の窯から発見されました。かけらの組成を分析してみると、古い伊万里焼の素地であることが明らかになったのです。
かの柿右衛門の家に伝わる覚書にも「加賀前田家の御買物師に(赤絵を)売った」という記述があり、有田焼が九谷焼に先んじて色絵磁器を製造しており、影響を与えていたことが読み取れます。
柿右衛門様式
1660年代に入ると、酒井田柿右衛門が中国風の色絵磁器の焼成に成功します。
濁手(にごしで)と呼ばれる温かみのある乳白色の素地と、赤色が印象的な絵画調の上絵付が特徴です。この上絵付は「赤絵」とも呼ばれます。
この特徴は「柿右衛門様式」と呼ばれて大流行し、特に海外向けの製品として大量に生産されました。そしてオランダ東インド会社の手によって海外に輸出され、のちに誕生するマイセンなどのヨーロッパ磁器に多大な影響を与えました。
現在も柿右衛門の技と名前は受け継がれており、名品を作り続けています。
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金襴手様式
江戸時代の元禄期に入ると、染付白磁に上絵付をし、さらに金彩を施した豪奢な器が作られるようになります。
これは「金襴手(きんらんで)」と呼ばれる様式です。
金襴とは金糸や切金箔を用いて模様を織った織物のことで、その精緻かつ華美な様にちなんでこのように呼ばれるようになりました。
この高級志向の器は伊万里焼を代表するものとなり、国内の富裕層だけでなく、豪華な装飾趣味を好んだヨーロッパの王侯貴族からも広く愛されました。
鍋島様式
「鍋島(なべしま)」とは、幕府や朝廷への献上品として、鍋島藩の厳しい統制のもとに制作された作品群のことです。
有田焼の技術と意匠の粋を結集して作られた藩御用達の品々であり、一般には流通しませんでした。鍋島藩の技術管理は厳格で、鍋島を作る職人たちがその製法を漏洩させないよう、定められた区画に集住させ、そこから外に出ることを制限するほどの徹底ぶりでした。
鍋島の絵付は中国陶磁器の形式を脱した日本的なもので、呉須の染付に、赤、黄、緑を基調とした上絵付が特徴です。器形は木盃(もくはい・お祝いなどで使う朱漆塗りの酒器)によく似ており、やや深めに反り上がった見込みと薄く高さのある高台が特徴です。
染付を巧みに白抜きする墨弾きという手法を開発し、青海波や紗綾形などの緻密な文様を描き出したものもあり、高度な技巧と様式化において他に類を見ません。
現在の有田焼
現在も有田焼は多くの窯元が操業を続けており、日常使いの器から高級で特別なテーブルウェア、美術性の高い工芸品まで、幅広く作り続けられています。
また、さまざまな企業やプロダクツとのコラボレーションも盛んです。
1970年代には、源右衛門窯がアメリカの宝飾品ブランド・ティファニーとコラボして「青磁木の葉文」シリーズを発表。青磁釉と染付のかけ分けが麗しいカップ&ソーサーは、今でもコレクターに人気があります。
キリンビールが各国・各地域の器メーカーとコラボしたビアマグシリーズでは、十四代酒井田柿右衛門と、十三代今泉今右衛門が、それぞれ特徴ある美しいビアマグを発表しています。
2016年にはフランスのラグジュアリーブランド・ゲランとコラボし、存在感のある華やかな磁器製フレグランスボトルが話題となりました。
終わりに
「有田焼(伊万里焼)」は、伝統と格式を守りながらも、絶え間ない技術革新をくり返してきました。その中で多彩な様式と数多くの名品を生み出しました。
新たな試みの中で作られる有田焼は若い世代の評価も高く、長い時間を生き抜いたアンティーク品も根強い人気を博しています。
中でも重要無形文化財(人間国宝)に指定された井上萬二、鍋島焼の技法を現在に受け継ぐ今泉今右衛門、酒井田柿右衛門窯の作品などは、コレクターズアイテムとして高価で取引されることも少なくありません。
製品の状態、共箱などの付属品によっては、評価額が高くなる場合もあります。有田焼(伊万里焼)の買取をご検討されている場合は、ぜひ一度ご相談ください。
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担当
小川芳朋
編集部
西洋陶磁器が専門。 美しい物と怖い物について書いています。 アンティーク食器のほか、蚤の市、廃墟、妖怪に詳しい。