
狩野安信
狩野安信の水墨画の掛軸です。
狩野 安信(かのう やすのぶ、慶長18年(1614年)- 貞享2年(1685年))は江戸時代の狩野派の絵師である。通称右京進、号永真・牧心斎。狩野孝信の三男で、兄に狩野探幽、狩野尚信がいる。狩野宗家の中橋狩野家の祖。弟子に英一蝶がいる。
慶長18年12月1日(1614年1月10日)、狩野孝信の三男として生まれる。幼名は四郎二郎・源四郎。
6歳の時、父を亡くし光信の高弟狩野興以や兄探幽守信に画法を学びます。長男の探幽と安信には12歳の年齢差があり、安信にとって兄の指導は非常に厳しかったようです。
狩野永徳直系の孫である狩野貞信に子がいなかったため、10歳で貞信の養子となり惣領家を嗣ぐことになります。
隠元隆琦から法を受け、普門寺の障壁画を描きます。当時の狩野派の絵には隠元や黄檗宗による着賛が多くみられ、中でも安信の作には黄檗の影響を受けたと思われる作品が多く、関係の深さを感じます。
寛永年間には江戸へでて、幕府御用絵師として中橋に屋敷を賜わり、中橋狩野の祖となります。長男探幽は鍛冶橋家、二男尚信が木挽町家を造り、後に木挽町家から分家した狩野随川岑信が浜町狩野家を立ち上げると、奥絵師四別家が成立します。京狩野に対して江戸狩野と呼ばれ、幕府絵師の筆頭的地位を保ち、その後長らく画壇の中心に存在することになります。
寛文2年 (1662年)、法眼に昇叙。
寛永・承応・寛文・延宝度造営の内裏や、江戸城本丸、西の丸の障壁画制作に従事し、62歳にしてようやく名実ともに狩野派筆頭の地位を得ます。
安信は兄探幽らと比較され、過小評価されることがしばしばありました。天賦の才能といわれた探幽に比べると、先天的な才能には恵まれていなかったようですが、「学画」の思想も然り、非常に努力しその結果を見事に作品に残した画家と言えます。また独自の画業だけでなく、狩野派の地盤を固めるなど、宗家としての残した功績は決して少なくありません。
古美術永澤では、狩野派の掛軸を探しています。
関わりが深かった隠元をはじめとした黄檗宗の掛軸も承ります。
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