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熊谷守一の買取
熊谷守一の作品を高く評価しております。
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熊谷家は岐阜県恵那郡付知村の大地主で、父孫六郎は守一が生まれたころは岐阜で大規模な製糸工場を営んでいた。守一は付知村で生まれたが、3歳の時に父と2人の妾が暮らす岐阜の家に引き取られる。留守がちの孫六郎にかわって家を取り仕切る妾・たねを「おかあさん」と呼ばされ、異母兄弟や妾の連れ子、親類などと一緒に育った。守一は当時のことを「私はもう小さいときから、おとなのすることはいっさい信用できないと、子供心に決めてしまったフシがあります」と振り返っている。
東京美術学校時代
1897年、守一は孫六郎の東京で教育するという方針のもと、岐阜中学の卒業を待たずに17歳で上京する。孫六郎は東京でガラス工場を経営し、衆議院議員でもあったため、芝に家を持っていた。だが、東京の中学で英語につまずいた守一は進路について悩み、絵の道に進みたいと父に切り出す。孫六郎は当初はまったく取り合わなかったが、守一の意思の固さに「もし慶應に一学期だけ通ったら、後はお前の好きなようにしていい」と折れた。
1900年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科選科に入学。6人の同級生の中に青木繁がいた。貧乏で人の絵の具を勝手に使い、指導する黒田清輝をばかにするような態度をとる傲岸な青木を嫌う者も多いなか、2人は良い友人となった。青木繁は『海の幸』で一躍画壇の寵児になった後、失意のうちに28歳という若さで亡くなる。守一は「青木があと10年遅く生まれていたら、飢死しないですんだのにと、つくづく思いました。(略)青木の死を知ったとき、ああ絵を描く友達を失ったなあとしみじみ思いました。」と語っている。
また、後に本科から選科に移ってきた斎藤豊作も守一の友人になり、卒業後はパトロンとして物心両面で支えることになる。
守一が入学したころの西洋画は、工部大学校のお雇い外国人だったフォンタネージの門下の小山正太郎、浅井忠らによる明治美術会(旧派、脂派)と、ラファエル・コランに学んだ黒田清輝、久米桂一郎らによる白馬会(新派、紫派)の2つの勢力があった。守一はどちらも学んだが、黒田清輝やコランに対しては批判的な言葉を残している。卒業制作の『自画像』や文展に出品した『蝋燭』などの暗い色調には、旧派の影響が強くみられる。
父の急死と樺太での体験
1902年に孫六郎が巨額の負債を残して急死する。守一は本州の中部以北を徒歩で回る遠大なスケッチ旅行に出ていて、父の死を知ったときには死後ひと月が経過していた。父の死により、守一も当時のお金で50万円(現在のお金で数億円)という借金を背負うことになる。しかし、借金取りは一度来ただけで、支払い能力がないとみてか再び来ることはなかった。
きりつめた生活を強いられたものの、兄が学費を工面してくれたため、守一は東京美術学校を首席で卒業した。卒業後は、友人があっせんしてくれた樺太調査隊の仕事につく。この仕事は月給25円で、2年間にわたって樺太の動植物や風景、民俗のスケッチを行うもので、この体験によってのちに『黒百合』『ハマナス』『土饅頭』が描かれた。
当座の生活費を稼いだ守一は千駄木に落ち着き、創作活動に取り組んだ。
『轢死』は東京美術学校に通っていたころ、若い女性の飛び込み自殺の現場に遭遇するという実体験に基づくもので、守一はその場で轢死体を写生し、その後何度かそのモチーフを作品化しようと試みている。『轢死』は文展に出品しようとして黒田清輝に拒否されたため、白馬会展へ出品された。次の『蝋燭』はローソクに照らされた自画像で、この作品は文展で褒状を受けた。
母の死と帰郷と再上京
1910年、母タイの危篤の知らせを受けて不知に帰った守一は、そのまま長兄が製材業を営む生家に居候することになる。山で伐った材木を川の流れで運ぶ日傭(ひよう)の仕事をしたときに、自然の中での暮らしを体験し、山の動植物を観察したことが、その後の制作にいかされた。また、このときの仕事着であるカルサンを生涯愛用した。
斎藤豊作が創立メンバーであった二科展が設立された翌年の1915年(大正4年)、35歳になった守一は、東京に戻ってくる。そして二科展に出品し、会員に推挙される。晩年になるまで寡作だった守一も、この二科展だけは毎年出品を続けた。斎藤は再上京に際し、守一に月々40円の援助を約束し、援助は斎藤がフランスへ移住した後も斎藤の兄によって続けられたが、守一の結婚の翌年に中止になった。
大江秀子との結婚と耐乏生活
1922年42歳のときに、守一は和歌山県の地主の娘で絵を学んでいた24歳の大江秀子と結婚する。20歳で守一と知り合ったとき、秀子は画家・原勝四郎の弟愛造の許嫁だった。1918年、守一は秀子をモデルにした『某夫人像』を二科展に出品する。1920年に愛造と秀子は結婚したものの、その後離婚し、秀子は守一と再婚した。
守一と秀子は5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれる。「私は若いころ、子供が次々とできて何かと金が入用の時期に、仕事が全く手につかなかったことがあります。一年間、一度も絵筆を握らなかったこともある」と語ったように、このころ守一はあまり絵が描けず、一家の暮らしは困窮を極めた。
子供が病気になっても医者にみせることもできず、2人の子供を幼いうちに失っている。次男の陽が肺炎になって2歳で死んだときに枕元で描いた『陽の死んだ日』は、その年の二科展に出品されている。「子供が病気になって暮らしに困ったときでも、そのために絵を描いて金にかえるということはできませんでした」「次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残す何もないことを思って、陽の死顔を描きはじめましたが、描いているうちに“絵”を描いている自分に気がつき、嫌になって止めました」と述懐している。
この生活をなんとか支えていたのは友人からの援助だった。『海ゆかば』で知られる信時潔は特に仲が良く、のちに熊谷の長男と信時の長女が結婚している。このころは音楽仲間とのつきあいが多く、守一もチェロを弾くようになった。
1929年、二科会の研究所である二科技塾(のちの二科美術研究所)が開設されると、守一は安井曾太郎、有島生馬、山下新太郎らと指導にあたった。守一にだけは特別に車代の名目で30円が支給された。二科会の書生からいい絵の描き方を問われ、「自分を生かす自然な絵をかけばいい。」「下品な人は下品な絵をかきなさい、馬鹿な人は馬鹿な絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい。結局、絵などは、自分を出して生かすしかないのだと思います」と答えている。守一は絵を技術的な上手い、下手で評価せず、独自性を大事にした。
新しい家と画風の変化
1932年、秀子の実家から援助を得て、池袋のアトリエ村に近い豊島区長崎仲町(現千早町)に家を建てる。一帯はまだ鄙びており、守一は「まわりは原っぱと畑だけでした。十町以上も先のずっと目白通りまでがすっかり見渡せました。」と回想している。守一は写生旅行で持ち帰った植物を庭に植え、池を掘るなど自分好みの家を作り上げていった。
新しい家に移ってから、守一は初めて画室を持つ。十坪ほどの空間の中央にイーゼルがあり、椅子には熊の毛皮が敷かれていた。絵が描けなかったころ、時計の修理が趣味だった守一は機械いじりが好きで、たくさんの金物を持っていた。画室には釘ややっとこなど入った箱がうずたかく積み上げ、壁ぎわに昔使っていた縄や鍋をかけた。窓ぎわには鳥かごが並べ、タカやコノハズクなどを飼った。長男の黄は「父はなんでもとっておくひとでした。送られてくる荷物の札までとってありました。」と書いている。守一は画室へ入るのを「学校へ行く」と称し、仕事中は人が入るのを嫌った。この家で、昼は蝶や蟻などのスケッチにいそしみ、夜に絵を描くという生活をするようになった。
1936年、20年ぶりに郷里を訪ねたときに描いた絵に、熊谷守一の絵画を特徴づける赤い線がはじめて出現する。その後、試行錯誤を経て、赤い線郭線と平面的な画面構成で対象を単純化して描く「熊谷様式」が確立されていく。
二科展の仲間と画廊で二人展を開いたのをきっかけに展覧会を開くようになり、日本画や書も手がけるようになる。志賀直哉や武者小路実篤などの知己を得、木村定三ら有力なコレクターも現れた。
第二世界大戦中は池袋周辺も空襲にあい、周辺にあったアトリエ村は灰燼に帰したが、守一の家は奇跡的に被害をまぬがれた。だが軍需工場に動員されていた長女の萬は過労で肺結核を病み、21歳で亡くなる。萬の没後9年たって発表されたのが、代表作の一つ『ヤキバノカエリ』である。この作品は萬を荼毘に付して家路につく守一と長男・黄、次女・榧が描かれている。
このころ絵のスタイルが定まり、若いころにまったく描けなかったのがうそのように次々と作品を仕上げていった。2004年に出版された作品集では、守一の油彩作品は1500点以上と推定されているが、2000点近くにのぼるという研究者もいる。鳥、虫、花、猫など身近なものを描いた絵に人気が出て、展覧会の数も増えていった。特に猫は油彩、水彩、水墨と多くの作品を残している。
長男の黄は、守一の猫への態度を次のように語っている。「父の猫への接し方は、普通に人が『飼う』というのとは少し違っていて、猫の身になって猫が困らないような暮らしやすい環境をつくるように心をくだいていました。そして父はそういうことにはとても熱心でした。家への出入りも猫の自由になるように、雨戸の隅に穴をあけて猫が押すとめくれて通れるような仕掛けをつけ、障子も桟の間の紙がめくれるように切り込みを入れていました」
自宅から出ずに描き続けた最晩年
1956年76歳の時、軽い脳卒中で倒れ、それ以降長い時間立ったり歩いたりすると体調が悪くなるようになった。そのためスケッチ旅行に出かけることができなくなり、晩年20年間は自宅で過ごしたが、創作意欲が衰えることはなかった。
守一の最も有名なエピソードとして、文化勲章の辞退があげられる。1967年87歳の時のことで、理由をきかれると「お国のためにしたことはないから」「これ以上人が来てくれては困る」などと答えた。1972年の勲三等叙勲も辞退した。1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される。
熊谷は自分の画風を「下手も絵のうち」と表現している。「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語っている。
晩年に「何がほしいか」と尋ねられると、いつも「いのち」と答えた。また信時潔が「もう一回人生を繰り返すことが出来るとしたら、君はどうかね。ボクはもうこりごりだが」と言うと、「いや、おれは何度でも生きるよ」と返答したという。
1977年8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没。
熊谷守一の代表的な作品
- 『蝋燭』 1909年(岐阜県美術館)
- 『陽の死んだ日』 1928年(大原美術館蔵)
- 『裸婦』 1930年(東京藝術大学大学美術館)
- 『裸婦』 1940年(徳島県立近代美術館)
- 『ヤキバノカエリ』 1948年(岐阜県美術館蔵)
- 『種蒔』 1953年(福島県所蔵)
- 『土饅頭』 1954年(北九州市立美術館)
- 『化粧』 1956年(京都国立近代美術館)
- 『白猫』 1959年(豊島区立熊谷守一美術館)
- 『猫』 1963年(愛知県美術館)
- 『白猫』 1963年(個人蔵)
- 『岩殿山』 1965年(京都国立近代美術館)
- 『兎』 1965年(天童市美術館)
- 『泉』 1969年(熊谷守一記念館)
- 『芍薬』 1973年(和泉市久保惣記念美術館)
熊谷守一の人気の作品
よく知られている明るい色彩に平面的な画面構成の「熊谷様式」が確立されたのは、守一が60歳を過ぎてからのことです。
熊谷守一が自分の家の庭で見られるものを描いた虫、鳥、猫、花などの絵が人気です。
家から出ることなく絵を描き続けた熊谷守一の晩年は、映画化(『モリのいる場所』)されています。
熊谷守一の作品の査定のポイント
絵画は保存状態が買取価格に大きく影響します。汚れやシミ、傷がないことが査定のポイントになります。また、基本的にサイズは大きいほど高額になります。
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