- 刀工
新藤五国光の買取
新藤五国光の作品を高く評価しております。
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新藤五 国光 (しんとうご くにみつ) は、鎌倉時代後期の相模国 (神奈川県) にて活動した刀工。相州伝の実質的創始者である。永仁元年 (1293年) から元亨4年 (1324年) までの在銘作刀があるが、後年の年紀作に書風が異なるものがあり、その間に2代あったと伝える。作に太刀は少なく、短刀が多くを占め、古来短刀の名手として名高い。門人に行光、郷義弘、五郎入道正宗。
国光の系譜には諸説あり、師については、備前国宗、一文字助真、京の粟田口国綱の三説があり、また、国綱を父、国宗を師とする説も伝えある。ほかにも、刀銘「新藤五長谷部國光」から長谷部派の祖とする説もあり、定かではない。最古の年紀作に「鎌倉住人新藤五国光作 永仁元年十月三日」と銘をきった短刀があるため、鎌倉を拠点に作刀していたことは明らかとなっている。当時鎌倉には備前、一文字、粟田口の一派が移住し、新地でそれぞれの伝統流派を根付かせるべく、作刀に励んだものと伺える。その地で諸流派の技法を吸収し、されに独自の作風を展開し始めたのが国光である。作風は粟田口伝の高貴な姿の直刃を基調とし、地と刃の沸が強く、金筋が際立つ姿が特徴的である。その作風は弟子の行光を経て正宗によって完成され、相州伝と呼ばれるに至る。
作には名物会津新藤五や名物陸奥新藤五などがある。
名物会津新藤五は国光の傑作と称される短刀で、8寸4分5厘 (約25.5cm)、平造り、内反り、目釘孔1つ、国光二字銘。はじめ蒲生氏郷が所持していたが、後に前田利常が金100枚で購入。本阿弥の折り紙付きとなり、将軍綱吉が前田家へ訪れた際に将軍家へ献上された。以後将軍家に伝来となり、昭和初期まで徳川家の所蔵であった。昭和26年国宝に指定される。
国光の系譜には諸説あり、師については、備前国宗、一文字助真、京の粟田口国綱の三説があり、また、国綱を父、国宗を師とする説も伝えある。ほかにも、刀銘「新藤五長谷部國光」から長谷部派の祖とする説もあり、定かではない。最古の年紀作に「鎌倉住人新藤五国光作 永仁元年十月三日」と銘をきった短刀があるため、鎌倉を拠点に作刀していたことは明らかとなっている。当時鎌倉には備前、一文字、粟田口の一派が移住し、新地でそれぞれの伝統流派を根付かせるべく、作刀に励んだものと伺える。その地で諸流派の技法を吸収し、されに独自の作風を展開し始めたのが国光である。作風は粟田口伝の高貴な姿の直刃を基調とし、地と刃の沸が強く、金筋が際立つ姿が特徴的である。その作風は弟子の行光を経て正宗によって完成され、相州伝と呼ばれるに至る。
作には名物会津新藤五や名物陸奥新藤五などがある。
名物会津新藤五は国光の傑作と称される短刀で、8寸4分5厘 (約25.5cm)、平造り、内反り、目釘孔1つ、国光二字銘。はじめ蒲生氏郷が所持していたが、後に前田利常が金100枚で購入。本阿弥の折り紙付きとなり、将軍綱吉が前田家へ訪れた際に将軍家へ献上された。以後将軍家に伝来となり、昭和初期まで徳川家の所蔵であった。昭和26年国宝に指定される。
新藤五国光の代表的な作品
- 短刀銘国光 会津新藤五
- 短刀 乱新藤五
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