内藤湖南ないとう こなん

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    内藤湖南(ないとう こなん、1866年-1934年)は明治から昭和時代前期に活躍した日本の東洋史学者である。

    秋田県出身。本名は虎次郎。湘南は号である。

    折衷学派に属していた南部藩士の内藤調一(号は十湾)の次男として生まれる。戦国武将の内藤昌豊の子孫という家系伝承を持つ。


    幼いころから才能をみせ、わずか6歳で「大学」を習得。7歳で「二十四考」や「中庸」と四書を習得。13歳で頼山陽「日本外史」を通読し、史学を始める。その後は秋田で最も古い塾である内館塾の後継の小学校の秋田師範学校に入学。在学中はキリスト教会に通い、アメリカ人のガルスト・スミスについて「万国史」などの勉強し、勤勉であった。4年かかる過程の秋田師範学校をわずか2年半で卒業。卒業後は綴子小学校の主席訓導を約1年勤める。


    その後は上京し、仏教雑誌「明教新誌」の記者、政教社の「日本人」や「三河新聞」、「大阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」などの編集を行う。台湾にも渡り、やがて大阪朝日新聞社で論説担当者となり、中国問題の論壇第一人者として外務省の対華政策にも献言する。ジャーナリズム界で活躍していた間にも中国の学術全般についての研究を深めており、日本の中国学研究が漢字ではなく、清朝風な実証学でなければならないことを確信し提唱した。


    1907年には京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師を勤め、学長である狩野亨吉に「内藤をとらぬならおれもやめる」と文部省に押し通され、1909年には同学の教授となる。翌年には文学博士となる。
    その後も教授を勤め、中国史の時代区分などの研究で独自の理論をたてた。邪馬台国論争については畿内説を主張。


    1926年に退官。帝国学士院会員に選出される。その後は京都府瓶原村で恭仁山荘を営み、読書生活に入り、国宝保存委員などの要職を続け、1934年に死去。



    年表
    1866年 秋田県で生まれる
    1884年 秋田師範学校卒業
    1887年 上京 仏教雑誌「明教新誌」の記者となる
    1907年 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師
    1909年 京都帝国大学教授となる
    1910年 文学博士となる
    1926年 京都帝国大学退官
    1934年 死去

    内藤湖南の代表的な作品

    • 「日本文化史研究」、「先哲の学問」、「清朝史通論」、「支那史学史」、「東洋文化史」、「支那論」、「中国近世史」

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