小川芋銭の買取
小川芋銭の作品を高く評価しております。
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小川芋銭(おがわうせん、1868年3月11日(慶応4年2月18日)- 1938(昭和13)年12月17日)は、画家。本名、小川茂吉。幼名、不動太郎。別号に牛里・草汁庵など。
東京赤坂牛久藩邸の重臣小川賢勝の長男として生まれる。廃藩置県により茨城県牛久に移住。1879年に牛久小学校下等小学校第三級を卒業。卒業後は上京し、小間物屋に奉公した。初めは本多錦吉郎の彰技堂に入り、洋画を学ぶ。その後尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社。
1893年に父親に牛久に戻され、農業に従事。その一方で画業にも励み、農民を主題とした風刺的な漫画や挿絵を「平民新聞」や雑誌「文芸界」などを寄稿。また、1915年には平福百穂らと共に珊瑚会の設立に参加。1917年の珊瑚会展に「肉案」を出品。その作品が横山大観に認められ日本美術院同人となった。
漫画や俳画など幅広く絵を描き、幻想とユーモアにあふれた独特な画風であった。中でも河童絵の名人として名が知られている。
年表
1868年 東京で生まれる。
1871年 茨城県牛久に移住
1879年 牛久小学校下等小学校第三級 卒業
上京
1880年 桜田小学校尋常科第三級後期 卒業
1881年 本多錦吉郎の彰技堂に入塾
1887年 朝野新聞 入社
1893年 帰京 農業に従事
1900年 句会『水月会』入会
1904年 『木星会』の結成に参加
1908年 初の画集『草汁漫画』を刊行
1911年 「ホトトギス」の表紙画・挿絵
1915年 『珊瑚会』設立
1917年 珊瑚会展に「肉案」を出品
日本美術院同人となる
1923年 茨城美術展 顧問
1935年 帝国美術院参与
1938年 死去
東京赤坂牛久藩邸の重臣小川賢勝の長男として生まれる。廃藩置県により茨城県牛久に移住。1879年に牛久小学校下等小学校第三級を卒業。卒業後は上京し、小間物屋に奉公した。初めは本多錦吉郎の彰技堂に入り、洋画を学ぶ。その後尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社。
1893年に父親に牛久に戻され、農業に従事。その一方で画業にも励み、農民を主題とした風刺的な漫画や挿絵を「平民新聞」や雑誌「文芸界」などを寄稿。また、1915年には平福百穂らと共に珊瑚会の設立に参加。1917年の珊瑚会展に「肉案」を出品。その作品が横山大観に認められ日本美術院同人となった。
漫画や俳画など幅広く絵を描き、幻想とユーモアにあふれた独特な画風であった。中でも河童絵の名人として名が知られている。
年表
1868年 東京で生まれる。
1871年 茨城県牛久に移住
1879年 牛久小学校下等小学校第三級 卒業
上京
1880年 桜田小学校尋常科第三級後期 卒業
1881年 本多錦吉郎の彰技堂に入塾
1887年 朝野新聞 入社
1893年 帰京 農業に従事
1900年 句会『水月会』入会
1904年 『木星会』の結成に参加
1908年 初の画集『草汁漫画』を刊行
1911年 「ホトトギス」の表紙画・挿絵
1915年 『珊瑚会』設立
1917年 珊瑚会展に「肉案」を出品
日本美術院同人となる
1923年 茨城美術展 顧問
1935年 帝国美術院参与
1938年 死去
小川芋銭の代表的な作品
- 「樹下石人談」
- 「若葉に蒸さるる木精」
- 「水魅戯」
- 「夕凪」
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