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竹内栖鳳の買取
竹内栖鳳の作品を高く評価しております。
もし作品がお手元にございましたらぜひご相談ください。
竹内栖鳳の人気の作品
竹内栖鳳は戦前の京都画壇を代表する大家と言われ、近代日本画の先駆者です。
画風の基礎は四条派でしたが、当時の慣習を破って他の流派の画法も用いたため、「鵺派」と批判されることもありました。
その後、ヨーロッパ旅行を経て西洋の写実画法なども積極的に取り入れ、日本画の革新運動に貢献しました。
栖鳳は猫、犬、烏などの身近な生き物がモチーフの絵を多く残しています。対象を徹底的にスケッチして描かれた動物や魚の絵は、「匂いまで描く」といわれ、その本能や習性までも写しとっています。
動物画や風景画が多く残されていますが、現在も人気の高い画家であるため、どのモチーフでも高額で取引されています。
竹内栖鳳の作品の査定のポイント
竹内栖鳳は小品から掛軸、屏風までさまざまな大きさの作品を手掛けています。
一般的には作品のサイズが大きいほど、高額の査定が見込めます。
また、査定額は作品の保存状態にも大きく左右されます。ヤケやシミがない方が評価額は高くなりますので、保管する場所には注意が必要です。
鑑定書や落款、印、共箱の有無も査定に影響します。もしあれば一緒に保管しておき、査定のときは必ず一緒に出しましょう。
竹内栖鳳の図録や画集に掲載された作品も、同じく査定価格がアップします。
竹内栖鳳の生涯
竹内栖鳳、本名恒吉は、1864(元治元)年11月、京都の二条城近くで川魚料理屋「亀政」を営む家に生まれた。栖鳳誕生直前の7月には蛤御門の変が勃発し、3歳のときに大政奉還で徳川幕府が滅亡。市街地が激戦の舞台となった京都に生まれ育った。
明治10年、13歳のときに母きぬが亡くなる。このころから祖母に連れられ、四条派の土田英林に絵を習い始める。しかし、明治14年に、同派の名手である幸野楳嶺の塾へ正式に入門した。楳嶺は円山派の中島来章、次いで四条派の塩川文麟に学び、京都府画学校設立に関わった後、私塾を設立していた。
栖鳳はここで「棲鳳」の画号を受ける。「鳳凰は梧桐の木にのみ棲み、竹の実のみを食す」という中国の故事を竹内の姓にかけたものといわれる。そして、菊池芳文・谷口香きょうらと「楳嶺門下の四天王」と呼ばれるようになる。
明治28年、師匠の幸野楳嶺が没する。前後して森寛斎、岸竹堂ら京都画壇の重鎮が次々と亡くなり、栖鳳は菊池芳文らとともに鑑査委員に任命される。開いていた画塾「竹杖会」に上村松園、小野竹喬、土田麦僊といった次世代の若手が集まる。
明治33年、農商務省と京都市から支給を受けて、パリ万国博覧会の視察のためにヨーロッパを訪れた。フランス、ドイツ、オランダ、イギリスなどを旅し、美術学校を見学したり、画家と会ったりした。
帰国後、栖鳳は写生をもとにした写実的なライオンや遠近法を意識した風景画を描く。これらの作品は京都画壇に驚きをもって迎えられた。
明治40年、日本初の官設美術展である文部省美術展覧会(「文展」)が始まる。栖鳳は審査員を務めると同時に、自らも作品を出品した。代表作である『アレ夕立に』『絵になる最初』『日稼ぎ』も、明治末~大正初めの文展出品作である。
大正2年からは皇室関係の仕事も手がけるようになり、名実ともに京都画壇の重鎮となる。大正7年に弟子の小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花らが文展に対抗する団体として国画創作協会を結成したときは、その活動に理解を示し、同会の顧問に就任している。
栖鳳も伝統的な山水画とも西洋の風景画とも違う独自の構図の風景画を試みるなど、精力的に制作を続けた。
昭和になると、動物の描写に変化があらわれる。細部まで緻密に描きこむことをやめ、少ない筆の画数で対象を描くようになっていった。また、静物と小動物を組み合わせた題材を多く取り上げるようになる。
昭和6年に体調を崩したため、療養の目的で湯河原の天野屋に滞在する。栖鳳は湯河原を気に入り、以後湯河原と京都を行き来するようになる。昭和9年には、天野屋の娯楽場をアトリエにして東本願寺の大寝殿障壁画を描いている。
昭和12年、横山大観と同時に第一回文化勲章に選ばれる。そのあとも創作意欲は衰えず、『若き家鴨』『雄風』などの大作にも取り組んだ。
年表
1877(文久4/元治元)年 京都市御池通油小路西入ル森ノ木町に生まれる。
1877(明治10)年 5月母きぬ死去。土田英林に絵を習い始める。
1881(明治14)年 幸野楳嶺の私塾に入る。
1884(明治17)年 京都府画学校に入学。
1886(明治19)年 フェノロサの美術講演を聞いて刺激を受ける。
1887(明治20)年 2月京都府画学校を終了。
8月高山奈美と結婚。
亀政の筋向かいに家を構え、画家として開業する(のちに富岡鉄斎の命名で「耕魚荘」と呼ばれる)。
1889(明治22)年 京都府画学校に出仕。
高島屋意匠部に勤める(1990年4月まで)。
1892(明治25)年 京都市美術工芸品展に出品した『猫児負喧』が「鵺派」と評される。
1895(明治28)年 5月、京都市美術工芸学校の教職に就く。
1897(明治30)年 このころより画塾を「竹杖会」と称する。
1900(明治33)年 8月、パリ万国博覧会視察のため渡欧。
1901(明治34)年 号を「栖鳳」に改称する。
1907(明治40)年 10月、第一回文展の審査員となる。
1912(明治45/大正元)年 栖鳳塾研究会が発足。
嵯峨嵐山の麓に別荘(霞中庵)を購入。
1913(大正2)年 12月、帝室技芸員となる。
1918(大正7)年 1月、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳らが国画創作協会を結成し、顧問になる。
1919(大正8)年 9月、帝国美術院が開設され、会員になる。
1920(大正9)年 4~7月、中国を旅行する。
1921(大正10)年 4~6月、再び中国を旅行する。
1923(大正12)年 京都市立絵画専門学校の教授を辞任する。
11月、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与される。
1925(大正14)年 11月、勲五等に叙せられ、瑞宝章を受賞。
1929(昭和4)年 夏、御池から高台寺の新邸に転居。秋、肺炎を患う。
1930(昭和5)年 1月、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を授与される。
1931(昭和6)年 3月、肺炎になり療養で湯河原の天野屋に赴く。
1933(昭和8)年 3月、ドイツ政府よりゲーテ名誉賞を授与される。
1934(昭和9)年 1月、天野屋に滞在し、東本願寺大寝殿障壁画を制作。天野屋の敷地内に住居(山桃庵)とアトリエを建てる。
1935(昭和10)年 3月、栖鳳ら京都画壇を代表する画家が結成した春虹会の第一回展に出品。
1937(昭和12)年 4月、第一回文化勲章を受章する。
1941(昭和16)年 絵筆で国に報いる「彩管報国」を理念とする日本画家連盟が結成され、顧問になる。
1942(昭和17)年 8月23日、湯河原の山桃庵にて死去。享年78歳。
竹内栖鳳の代表的な作品
- 『大獅子図』1902年(藤田美術館)
- 『羅馬之図』1903年(海の見える杜美術館)
- 『雨霽』1907年(東京国立近代美術館)
- 『飼われたる猿と兎』1908年(東京国立近代美術館)
- 『アレ夕立に』 1909年(高島屋史料館)
- 『絵になる最初』1913年(京都市美術館)
- 『群鵜』1913年(霞中庵 竹内栖鳳記念館)
- 『班猫』1924年(山種美術館)
- 『蹴合』1926年(山種美術館)
- 『薫風稚雀・寒汀白鷺』1928年(三の丸尚蔵館)
- 『清閑』1935年頃(京都市美術館)
- 『若き家鴨』 1937年(京都国立近代美術館)
- 『国端』1937年(高島屋史料館)
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