加山又造かやま またぞう

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加山又造の買取

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加山又造

加山又造の人気の作品



加山又造は、西陣の染織の下図を描いていた父の工房で「北斎漫画」を写して遊ぶような環境で育ちました。東京美術学校で日本画を学ぶものの、卒業したころは日本画の存在意義が問われているような時代でした。

そのため、西洋画の手法も学び、日本画以外の現代における日本画の在り方を模索し続けました。

日本画では猫、鶴、鳥、馬などの動物画と桜、雪山などの自然を描いた作品、裸婦がモチーフの作品が人気で、リトグラフなどの版画も数多く制作しています。


加山又造の作品の査定のポイント



日本画ややきものなどを入れておく箱に作家の署名があるものを「共箱」といいます。
共箱があると作品の価値が上がり、取引価格にも影響があります。査定に出す場合、共箱も一緒ですと、作品のみの場合よりも高額になる可能性があります。

近現代の日本画の額装された作品や版画には、作品の裏と作品が入っている額の裏に、作家の署名と作品名、落款の描かれた「共シール」が貼られています。こちらも真筆である証明になります。


加山又造の生涯



絵に囲まれた幼少期と戦後の苦境


父加山勝也は西陣の染色図案家で、豪華な帯の意匠で知られ、若くして弟子を抱えて工房を営んでいた。祖父は京都四條派、円山派に学び、田辺玉田と号した絵師だった。
病弱で外で遊ぶことの少なかった又造は、父の工房に入り浸った。父の集めた図案集や画集を眺め、いつしかそれらを真似て絵を描くようになる。

絵が得意だった又造が中学校進学に際して画家になることを希望すると、画家としての生活の苦しさを知る父から反対を受ける。だが又造の決意は固く、13歳で京都市立美術工芸学校に入学。京都市立美術工芸学校は姉妹校として京都市立絵画専門学校をもち、在校生はこの上級校に進学するのが普通だったが、又造は17歳で 東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に進学した。

東京美術学校では、又造が入学した年に教授として小林古径、安田靫彦、助教授に山本丘人、田中青坪、講師に奥村土牛、羽石光志らが就任した。ここでは自由に制作することを第一に、日本画の枠組にとらわれない発想が求められ、貴重な体験となった。

しかし、戦況が切迫すると画学生も戦争に駆り出される。勤労動員で各地を転々としながら軍事教育資料を描き、岩国で終戦を迎えた。
戦後すぐに父親が病没し、自分の学費、生活費に加えて母と妹たちの生活の面倒もみなくてはならなくなる。又造はポスター描き、ネオンサイン設計、看板描きなどのアルバイトに追われながら学業を続けた。

日本画滅亡論の最中に


1949年、東京美術学校日本画家を卒業、在学中から師事していた山本丘人が活動していた創造美術展に『風神雷神』を出品するも落選。これを契機に忙しいアルバイトの合間をぬって、毎月創造美術研究会に出席するようになった。この研究会を通じて、日本画滅亡論が唱えられて日本画の存在そのものに疑問が投げかけられていることや、日本画が現代絵画として存在するために目指すべき方向性などを知るようになる。

1951年、東京国立博物館表慶館で「アンリ・マチス展」を見て、「マチスの豊かでしゃれた線と色彩、自由で優雅な切り紙の装飾が、別の次元の世界のできごとのように思え」がく然とする。しかし、並行して本館で開かれていた「宗達光琳派特別展」で幼いときから親しんできた宗達の屏風を鑑賞することで、「自分の可能性の灯」を見つけ、「いつかは日本の美、現代に生きる美を、自分の手でつくりたい」と思うようになる。

1950年代なかばから、ラスコー洞窟壁画や北方ルネサンス絵画、キュビズム、フォービズム、シュルレアリズムなどを学び、鋭い線で表現された動物画を制作して注目される。

『悲しき鹿』(1954年)は又造の存在を人々に印象づけたが、彼は以下のように語っている。「構図その他の構想に、3年かかった。デテールのデッサンを重ねて、画面を計算し、検証し、築いていく。それ以前は面を重視していたのが、ここでは線が課題となった。ミロの対比効果の手法を、日本画の極度の様式性と装飾性のうちに使用してみた」

ただし、この西洋絵画への傾斜は、日本画に欠けていた構築性を学ぶためのもので、表現様式の上で模倣しようとしたのではなかった。

日本の美の在り方を追求


1960年代半ばからは、モチーフを単純化したり、誇張したりすることで本質的な要素を抽出する様式化が重要なテーマになる。
又造が装飾的な様式化について語っている言葉に、彼の芸術観があらわれている。
「とにかく、日本の美の在り方、昇華し、純化したエキスを表現する、日本独自の装飾観、私は、それが日本美術の卓越した特性であると考えている。」
「日月星辰、山川草木、鳥獣魚虫、さらに、霧、霞、雲、雨、雪、火炎、流水、波濤、そして人物、さらに霊獣、世の物象すべてが、様式化され、美しい生命感を持って表現される。それは、あるいは象徴的であり、抽象的であり、情緒的であり、日本独自の美の呼び方、『わび』『さび』の世界をも造り出したりする」

『夏冬山水』(1965年)『初月屏風』(1967年)『天の川』(1968年)などの屏風絵では、琳派風の装飾的な構成が試みられている。
「私は古画その他工芸品からも平気で写しをする。自分がそれの伝承者でなく、それとの断絶を確信しているせいだ。伝承者は写ししか出来ず、写しの延長をするのみだ。しかし断絶している者は、写しを新しい発見として出来る。古いものの中の、もの凄い前衛性を掴み出す事が出来る。そして、それを自分の世界に組み入れる事が出来る」と又造は断言している。

1970年代は裸婦をテーマに選ぶ。最初の裸婦の作品は1972年轟会展に出品した『波斯猫』だった。それまでの日本画で、日常的な生活で見られる範囲の裸体をこえて、全裸の女性を描いた作品はほとんどなかった。そのためこの作品は話題になった。

また、1978年に八年越しで完成した『雪月花』では、一つの画面に四季それぞれを様式化し、日本の自然のイメージを抽象化して表現した。

截金や染色的手法からエアガン、噴霧機まで新旧さまざまな方法を取り入れ、飛行機やアートカーのデザインを手がけるなど従来の枠を超えた新しい日本画表現の領域を切り開いた。

年表


1927(昭和2)年 京都市上京区相国寺東門前町に生まれる。
1940(昭和15)年 京都市立美術工芸学校に進学する。
1944(昭和19)年 東京美術学校日本画科に入学する。
1945(昭和20)年 学徒勤労令による勤労奉仕で盛岡や久里浜に動員される。山口県岩国にで終戦を迎える。
1946(昭和21)年 1月父勝也が病没。2月学校に戻るために上京する。
1949(昭和24)年 3月東京美術学校を卒業。
1950(昭和25)年 第2回創造美術春季展に『動物園』『自画像』が入選。
1951(昭和26)年 創造美術と新制作派協会が合同して発足した「新制作協会」の協友に推挙される。
1953(昭和28)年 萩谷みどりと結婚。
1955(昭和30)年 養清堂画廊で初個展を開催。銅版画を試作。
1957(昭和32)年 東京画廊で個展を開く。会場を訪れた横山操と知り合う。
1958(昭和33)年 第2回グッゲンハイム賞国際美術展に出品。縣治朗に截金の技法指導を受ける。
1959(昭和34)年 加山又造、横山操、石本正を会員とする「轟会」が発足。
1960(昭和35)年 「日本画の新世代」展(東京国立近代美術館)に出品。リトグラフを初制作。
1961(昭和36)年 ジャネット・ネスラー画廊(ニューヨーク)で個展を開催。
1964(昭和39)年 多摩美術大学の非常勤講師となる。
1966(昭和41)年 多摩美術大学日本画科教授となり、横山操とともに指導にあたる。
1973(昭和48)年 4月横山操死去。多摩美術大学日本画家教授を辞任する。
1976(昭和51)年 義弟である番浦史郎の窯場のある三重県阿山郡に焼物の絵付け用のアトリエを建てる。
1977(昭和52)年 再び多摩美術大学日本画家教授に就任。
1984(昭和57)年 身延山久遠寺本堂の天井画『墨龍』と襖絵『日月水図』『桜花図』『楓図』を完成。 
1988(昭和63)年 多摩美術大学教授を辞任し特別講師となると同時に東京藝術大学美術学部教授となる。
1990(平成2)年 BMW社からの依頼で「BMWアートカー」を制作。平安から続く日本の伝統技法「截金」をBMWの車体全体に施したことで話題を呼ぶ。
1992(平成4)年 新東京国際空港第二旅客ターミナル出発ロビーの陶板壁画の原画を制作。
1995(平成7)年 東京藝術大学美術学部日本画科教授を定年退官し名誉教授となる。
1996(平成8)年 大英博物館日本ギャラリーで「加山又造展」開催。
1997(平成9)年 京都天竜寺法堂の『雲龍図』が完成。文化功労者として顕彰。
2003(平成15)年 文化勲章を受章
2004(平成16)年 4月6日死去。享年76歳。

加山又造の代表的な作品

  • 『冬』1957年(東京国立近代美術館)
  • 『春秋波濤』1966年(東京国立近代美術館)
  • 『初月屏風』1967年(山種美術館)
  • 『千羽鶴』1970年(東京国立近代美術館)
  • 『華と猫』1973年(個人蔵)
  • 『風』1974年(個人蔵)
  • 『黒い薔薇の裸婦』1976年(東京国立近代美術館)
  • 『雪月花』1978年(東京国立近代美術館)
  • 『黒牡丹』1978年(駒形十吉記念美術館)
  • 『群鶴図』1988年(東京国立近代美術館)
  • 『龍図』1988年(光記念館)
  • 『猫と牡丹 』1990年(水野美術館)
  • 『雲龍』1997年(大本山天龍寺)

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