張之洞ちょう しどう

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    張之洞 張之洞(ちょうしどう、1837年-1909年)は、政治家。字は孝達。号は香濤、香巌など。河北省出身。

    1852年、15歳の時に郷試に合格し、26歳で進士となった。翌年、翰林院編修、教習、文淵閣校理を歴任。1880年、西太后が無理押しに光緒帝を支持し、高い地位に就かせようとしたことを官僚の呉可読が死をもって禁止した際、西太后に協力する態度をとり引き立てられるようになる。1881年に侍読、侍講学士、翌年1882年に内閣学士を歴任、1880年代に昇格、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めた。

    ロシアとの屈辱的条約に反対して強硬な外交路線を主張し、1884年清仏戦争に備えるために広東、広西を治める両広総督に任命されて以来前後18年間、湖広、両江などの総督をつとめた。

    1890年にドイツと共に鉱床が見つかった大治鉄鉱山の開発を進め、1893年に自強学堂(現在の武漢大学)を創立、翌年に自強軍を設立。外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発達成に努めた。また、湖北、湖南の産物を外国へ輸出、貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた。

    1898年に起こった変法運動に対しては、著作である「勧学篇」の中で中体西用の考えを示し、現状を変えることに積極的なさまを警戒している。戊戌の政変で変法派が追放されてからはひっそり暮らしていたが、1900年に起こった義和団の乱の際、唐才常ら自立軍の暴動を鎮圧、盛宣懐、張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結んだ。1901年には劉坤一と連名で江楚会奏三折と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた。上奏では教育改革を唱え、1904年に奏定学堂章程として政府から発布され1905年の科挙の廃止、京師大学堂(現在の北京大学)中心の近代教育整備に繋がった。

    「勧学篇」で日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し西洋の学問を自分のものにすべきことを説いている。1909年死去。享年72歳。

    張之洞の代表的な作品

    • 「勧学篇」
    • 「広雅堂集」

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